今日は林道ツーリング。
七戸町に寺下という所があり、セローというオフロードバイクと共に行って来ました。超山奥に民家あるとかないとか。Google earthで下調べしたらつまらなくなるので、あえて冒険してみます。
七戸町に寺下という所があり、セローというオフロードバイクと共に行って来ました。超山奥に民家あるとかないとか。Google earthで下調べしたらつまらなくなるので、あえて冒険してみます。
流石林道。普通の車だと亀になって動けなくなりそう。電柱があるのでホントに民家あるかも。宅配とか郵便とか泣き入るレベルだけど、どうしてんだろ?
悪路と戦いながら、突き進んでいきます。
突き当たると、こ、これは!「世にも奇妙な物語」の風景やないかーい!またしても試される。
電線が左へ繋がってるので私は左を選択しました。
当たり前か笑
電線が左へ繋がってるので私は左を選択しました。
当たり前か笑
ん?舗装?
来るまでの道が、グダグダなのに、こっから舗装にする意味を小一時間考えます。
予算がない→ここまで舗装材を運ぶ経費→???
山の入り口から舗装にしない理由はわからないまま、さらに奥へ。
来るまでの道が、グダグダなのに、こっから舗装にする意味を小一時間考えます。
予算がない→ここまで舗装材を運ぶ経費→???
山の入り口から舗装にしない理由はわからないまま、さらに奥へ。
十和田観光電鉄なんちゃらかんちゃら。
ポツンと一軒家発見!!
どっかの島みたいに、槍や弓で襲われたどうしようとか思いながら村を散策。第一村人には出会えませんでした。
どっかの島みたいに、槍や弓で襲われたどうしようとか思いながら村を散策。第一村人には出会えませんでした。
むむ!畑が手入れしてある。
人の出入りはありそうですね。
人の出入りはありそうですね。
まだ先に道があったのですが、明らかに大型で朝一番でしたと思われる動物のウンが落ちてたので安全を優先して引き返す事にしました。
四軒ぐらい建物があったのですが、建物の構造や仕上げ材を見ると、まだ人の出入りはありそうな感じ。住んでないとしても、ここ数年な気がします。
電気は来てますが、水がないのでおそらく浄化装置で生活してるのかな?
意外にもdocomo4Gの電波ありました。
帰宅してから調べて見ましたが、昔は小学校もあったらしいですよ。
うーむ、歴史〜♪
※道から撮影したものであり、秩序を持って冒険してます。土地等に入ってませんので村へ立ち入りした事ご了承下さい。
奇跡の村の概要については、以下、へき地ブログ様をリンクいたします。(青森県の文字のあたりをクリックで見れます)
四軒ぐらい建物があったのですが、建物の構造や仕上げ材を見ると、まだ人の出入りはありそうな感じ。住んでないとしても、ここ数年な気がします。
電気は来てますが、水がないのでおそらく浄化装置で生活してるのかな?
意外にもdocomo4Gの電波ありました。
帰宅してから調べて見ましたが、昔は小学校もあったらしいですよ。
うーむ、歴史〜♪
※道から撮影したものであり、秩序を持って冒険してます。土地等に入ってませんので村へ立ち入りした事ご了承下さい。
奇跡の村の概要については、以下、へき地ブログ様をリンクいたします。(青森県の文字のあたりをクリックで見れます)
青森県七戸町 寺下
◎ 青森県上北郡七戸町 寺下(てらした)
・七戸町中心部(七戸、R.394)から10km、クルマで約30分
・東北新幹線七戸十和田駅から13km、クルマで約38分
・農山村集落
・標高200m、2戸3名(平成24年)。集落西側には水田マークがある。(「地図インフォ」Webより)
・無住化(冬季無住化)は平成10年頃と思われる。
◎ 寺下分校の概況
寺下分校は、大正13年(1924年)4月1日、七戸小学校荒屋分教場寺下分教室として発足。数度の改称後、昭和22年(1947年)4月1日新学制施行により、野々上小学校寺下分校となり、以後は同名称で存続してきた。
野々上小学校より3.15km西に位置し、昭和34年4月1日、へき地3級の指定を受けた。寺下地区は由緒ある土地柄で、もとは戸数も多く、したがって児童数も多かったわけであるが、昭和二十年代には、児童数20人前後、戸数は長久保(北奥の集落)6戸、寺下12戸となり、さらに三十年代には長久保は野左掛(手前の集落)方面に移り、寺下も半減してしまい、児童数も急激に減少することになった。
昭和45年までは、六学年1学級の編成で一人の先生でずっとやってきたが、46年、児童7人に対し、先生が2人になった。さらに48年には先生は3人になった。閉校も近くなった昭和50年、51年には児童数は3人であるから、児童1人に先生1人という具合であった。
一つの学校が、その大きな使命を果たしつつも時の流れの中でその幕を閉じることは、たいへん残念なことであるが、子供たちのことを考えれば、やむを得ないことであっただろう。
昭和52年3月25日、部落全員、本校PTA10数人、町長、教育庁、その他有志50数人出席のもと、閉校式を挙行、3月31日をもって閉校、4月1日からは本校へ統合ということになった。
引用・参考文献 : 「七戸町史」、七戸町(1986)
・七戸町中心部(七戸、R.394)から10km、クルマで約30分
・東北新幹線七戸十和田駅から13km、クルマで約38分
・農山村集落
・標高200m、2戸3名(平成24年)。集落西側には水田マークがある。(「地図インフォ」Webより)
・無住化(冬季無住化)は平成10年頃と思われる。
◎ 寺下分校の概況
寺下分校は、大正13年(1924年)4月1日、七戸小学校荒屋分教場寺下分教室として発足。数度の改称後、昭和22年(1947年)4月1日新学制施行により、野々上小学校寺下分校となり、以後は同名称で存続してきた。
野々上小学校より3.15km西に位置し、昭和34年4月1日、へき地3級の指定を受けた。寺下地区は由緒ある土地柄で、もとは戸数も多く、したがって児童数も多かったわけであるが、昭和二十年代には、児童数20人前後、戸数は長久保(北奥の集落)6戸、寺下12戸となり、さらに三十年代には長久保は野左掛(手前の集落)方面に移り、寺下も半減してしまい、児童数も急激に減少することになった。
昭和45年までは、六学年1学級の編成で一人の先生でずっとやってきたが、46年、児童7人に対し、先生が2人になった。さらに48年には先生は3人になった。閉校も近くなった昭和50年、51年には児童数は3人であるから、児童1人に先生1人という具合であった。
一つの学校が、その大きな使命を果たしつつも時の流れの中でその幕を閉じることは、たいへん残念なことであるが、子供たちのことを考えれば、やむを得ないことであっただろう。
昭和52年3月25日、部落全員、本校PTA10数人、町長、教育庁、その他有志50数人出席のもと、閉校式を挙行、3月31日をもって閉校、4月1日からは本校へ統合ということになった。
引用・参考文献 : 「七戸町史」、七戸町(1986)